勝海舟
(かつ・海舟)
勝海舟という人がありました。まだ若いとき、オランダの学問を修め、海外の兵術を調べようと思いたちましたが、そのころ、外国の書物は少なくて、なかなか手に入れることができません。そのうえ、いちばんだいじな辞書などは、たとえ見つかっても、値段がずいぶん高く、一冊六十両もするほどでした。
貧しい暮らしをしていた海舟には、買いたくても、そんな大金を出すことができません。けれども、外国の書物をならいたての者にとって、辞書がないのは、ちょうど船に帆がないのと同じことです。海舟は、どうしても辞書がほしくてたまりませんでした。
とうとう思いあまって、毎晩遅くまで親類や知人のところをかけまわって、必要な金をととのえようとしました。すると、
「外国かぶれの者には、金を貸すことなんかできない。」
といって、みんなたいへんな剣幕です。
そのころの人たちは、外国の学問はけがらわしいもの、とばかり思いこんでいたのですから、無理はありません。いくら説ききかせても、だめです。
海舟は金を借りることを、きっぱりとあきらめてしまいました。
そうして、
「よし、辞書が買えなければ、辞書を借りて、写してやろう。」
と、おおしい気持ちを奮い起こしました。
さっそく、知り合いの医者から、オランダの辞書を借りてきて、寝る間も惜しんで、写しはじめました。まる一年ぐらいも、かかりました。
ちょうど、海舟のお父さんは、病気をしていて、動くことができません。その看病をしながら、一念こめて、海舟は写本の仕事を続けたのでした。冬が来ても、寒さをしのぐたきぎがありません。貧乏が海舟をほろぼすか、海舟が貧乏を打ち負かすか。一生懸命になって戦いつづけました。
写し終わった辞書の終わりに、海舟はこう書き残しています。
「秋の初めに書きはじめて、次の年の秋のなかばまでかかった。このころ、貧しさは骨の底までしみ込んで、冬の夜にも、寝るふとんがなく、また夏には、かやもなかった。来る夜も来る夜も、ただ机に寄りかかって眠った。」
実に骨をけずり、血をしぼるような思いで、書き写したのでした。
海舟は、写本の辞書を二冊も作って、一部は自分が使い、別の一部は人に売って、辞書を借りたお礼をしました。
意志の強い奮闘努力の人でなければ、まねのできないことであります。
外国の兵術を調べていた海舟は、幕府に召され、長崎へ行って、オランダ人から新しい航海術を学ぶことになりました。
航海術をひととおり修めて、まもなく海舟は、今度は日本人だけで太平洋を渡り、アメリカ大陸まで行ってみようと考えました。まこと愉快なもくろみではありましたが、案内する者もなく、はて知れぬ大海へ浮かぼうとするのですから、まったく命がけのことでした。
やがて日本の海軍を背負って立つ大人物となる海舟も、いよいよ日本の岸を離れようとするときは、
「死ぬか、生きるかだ。」
と、しばらくの間は、悲壮な気持ちで甲板に立ちつづけました。
万延(まんえん)元年という年、正月十三日のことでありました。海舟の乗り込んだ船を咸臨丸(かんりんまる)といいます。
冬の海は荒れて、大波はたえず甲板を洗います。しけになって、船体が木の葉のように揺られ、ねじ折られそうになったことも、たびたびありました。あられが降り、ひょうがたたきつける中を心細い航海を続けなければなりませんでした。海舟の日記には、三十七日の航海中、晴れた日はわずかに数日だった、と書き残されています。
何度も不安な気持ちが船員たちの胸をしめつけました。けれども、
「私たちは日本人だ。マストの上にひるがえる、あの旗を見ろ。日本の名誉を忘れてはならない。」
と、たえず励ましつづける海舟のことばに、船員たちも白地に赤の日の丸の旗を仰(あお)いでは、日本人としてのおおしい心をわきたたせました。
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、ということがある。私たちは、身を捨てる覚悟でなければならない。それでこそ、日本の誉(ほま)れを上げることができるのだ。」
とみんな心の中に誓ったのでした。
こうして、咸臨丸は白波をけたて、東へ東へと進みました。黒潮も、無事に乗りきりました。とうとう二月二十五日に咸臨丸は、その姿をサンフランシスコの沖合に現しました。
今こそ金門湾(きんもんわん)頭に、わが日本の旗をひるがえすときが来たのです。みんなは、マストの上の日の丸の旗に両手を合わせ、神様に深く感謝をいたしました。
このときすでにアメリカ人が、「日本をあなどることはできない」という感じを強くしたことは、いうまでもありません。
ところが、海舟はサンフランシスコのりっぱな街を眺めながら、持ち前の負けじ魂を出して、
「十年、二十年後の日本を見ろ」
と叫んでいました。強い愛国心が、大波のように胸にこみあげて、
「日本人が、世界を大股で歩く日の早く来るように」
と、いろいろ思いめぐらしました。
まもなく、海舟は江戸城明け渡しの大立者となって、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)と心をあうぇあせ、幕末の日本に挙国一致(きょこくいっち)の実(じつ)をあげさせました。太っ腹で、しかも、つねに細かく気を配った海舟は、数々の手柄をたてて、わが国の歴史に不朽(ふきゅう)の名をとどめたのでした。
(第五期 国民学校修身教科書 初等科 三)
野口英世
(のぐち・ひでよ)
英世は、三歳のとき、いろりの中にころがり落ちて、ひどいやけどをしました。母の介抱で、命だけは取りとめましたが、左の手は、五本の指がくっついて、まったくきかなくなってしまいました。
それでも、英世は元気に育ちました。そのうえ、利口でしたから、五、六歳のころには、何をやっても、近所の子供に負けたことはありませんでした。子供たちは、悔しまぎれに、英世の手が不自由であることをからかいました。
学校へ行くようになると、いっそうみんなから、笑われたり、からかわれたりしました。英世は、じっとそれをこらえて、
「よし、手は不自由でも、一心に勉強して、お国のために、きっとりっぱな仕事をしてみせるぞ」
と固い決心をしました。
英世の家は、磐梯山(ばんだいさん)のふもとの町へ続いた道のそばにありました。かやぶきの小さな農家で、わらござを敷いた部屋が二つ、あとは土間と、隣り合わせの馬小屋があるだけでありました。
母は、骨身(ほねみ)惜しまず、よく英世のめんどうを見ました。この母に対しても、英世は、ほかの子どものように、遊んでいる気にはなれませんでした。
その地方は、雪の多いところでしたが、元気な英世は、どんな大雪の日でも、休まず学校へ通いました。
利口で、元気で、何事にも熱心な英世に感心した人たちは、その手が不自由であることを、かわいそうに思いました。こうした人たちの親切で、英世は、ある医者の手術を受けました。すると、これまで不自由だった手が、どうやら使えるようになりました。
それにつけても、英世は、医者というものが、ありがたい人助けの仕事であることを知り、自分も医者になって、世のため人のためにつくしたいと思いました。
そこで英世は、学校を卒業すると、さきに手術をしてもらった医者の弟子になりました。そうして、先生の手伝いをして、一生懸命に働くかたわら、いろいろと医学の本を読み、また外国語の勉強をしました。
やがて、英世は東京に出ました。二十一歳のとき、医者の試験をりっぱに受けて、いつでも医者になることができるようになりました。
しかし、それだけで満足するような英世ではありませんでした。まもなく、アメリカ合衆国に渡って、勉強を続け、研究を重ねました。次々に医学上の新しい発見をし、むずかしい病気をなおす方法を考えて、たくさんの人々を救いました。
昭和三年、英世はアフリカへ渡って、恐ろしい熱病の研究をしました。惜しいことに、自分もその病気にかかって、とうとうその地でなくなりました。数えで53歳でありました。
世界の学者たちは、人類の恩人をうしなったといって、たいそう惜しみました。
(第五期 国民学校修身教科書 初等科 二)
渋沢栄一
(しぶさわ・えいいち)
渋沢栄一、明治になる少し前、利根川のほとり、熊谷(くまがや)の近くの血洗島(ちあらいじま)という村に生まれました。家は農耕・養蚕(ようさん)を業とし、かたわら藍玉商(あいだましょう)を営みました。栄一は勤勉で誠実な父と、慈悲深い母とに大切に育てられましたが、決してそれにあまえてはいませんでした。少年のころから学問が好きで、また剣道にも励みました。同時に農事に努め、熱心に商売の手伝いもしました。十四歳のときのことでした。父が藍玉取り引きのため遠くへ出向いた留守に、栄一はかねて望んでいたように、自分で商売をしてみるのはこの時だと思い、父が年々取引をしている近くの村々へ、父に代わって藍の買い入れに出かけました。
ところが、人々はこんな少年に藍の良否がわかるものかとあなどって、一向に相手にしてくれません。それにかまわず、栄一は行ったところで藍を取り上げて、これは乾かし方が足りないとか、下葉があがっているとか、肥料がきいていないなどと、藍のできばえをいちいち上手に品評しました。すると人々はおどろいて、さすがにお父さんのおしこみで見方がうまいといってほめ、それからは容易に取り引きの相談がまとまりました。こうして父の帰ったときには、近在の取引先の藍は、ことごとく買い入れがすんでいたので、父は非常に喜びました。
幕末の風雲はいよいよ急を告げてきました。それまで家業に身を入れていた栄一も、じっとしてはいられなくなり、ついに父の許しを得て、国事に奔走することとなりました。ときに二十四歳でした。
二十八歳のとき、はからずも、パリで開かれる万国博覧会へおもむく幕府の使節の一行に加わることになりました。一年半の間、ヨーロッパに滞在して、諸国の政治・経済・制度・文物を研究しているうちに、幕府がほろびたので帰国しました。父はわが子の身の上を案じ、大金をふところにして東京まで会いにいきましたが、栄一は、たのもしく独立の覚悟を語って、その金を受け取りませんでした。
栄一がパリにいた間にもっとも深く心を動かしたのは、ある銀行家とある将軍とが、肩をたたいて談笑しているありさまでした。栄一がおどろいたのも無理はありません。日本では「士農工商」ととなえて、武士と商人との間には身分のうえに非常な隔たりがあり、両者が一堂に会して談笑するなどとは思いもよらず、また商人はみずから軽んじて、「うそももとでの中(うち)」などといって平気でいる者がたくさんいたころであったからです。栄一は、
「将来わが国が盛んになるには、どうしても実業の発展をはからなければならない。それがためには、実業道徳を振るい起こし、士魂商才(しこんしょうさい)で行かなければならない。」
と考えて、それからの約六十年の間、あらんかぎりの努力をそれに払いました。
栄一の手にかけた仕事は、銀行・海運・鉄道・紡績・製紙・製鉄・造船・電気等の各方面にわたり、わが国の実業界の今日の隆盛(りゅうせい)は、その功によるものがどれほど多かったかわかりません。そのうえ朝鮮の開発や、国交の親善につくすところが多く、また教育および社会事業にたずさわって、生涯、力をつくしたので、功により男爵(だんしゃく)を授けられ、ついでに子爵に列せられました。さらに昭和四年、九十歳に達したときには、とくに宮中に召されて御陪食(ごばいしょく)の栄(えい)をたまわりました。実業家の地位を高めることを一生の願いとした栄一にとって、これが彼一人の光栄にとどまらなかったのは、いうまでもありません。
(第四期 尋常小学修身書 巻六)
伊能忠敬
(いのう・ただたか)
伊能忠敬は上総(かずさ)に生まれ、十八歳のとき、下総佐原(しもうささわら)の伊能氏の家をつぎました。
伊能氏は、代々酒をつくるのを業として、土地で評判の資産家で、いろいろ地方のためにもつくしていましたが、忠敬がついだころは、だいぶ家運が傾いていました。
忠敬は、どうにかしてもとのように盛んにしようと思って、一生懸命に家業に励み、自分が先に立って倹約しました。それで、家はしだいに繁昌(はんじょう)して、四十歳になるころには以前よりも豊かになりました。
忠敬は関東に二度も飢饉(ききん)があったとき、そのつど、家風にしたがって、金や米をたくさん出して、困っている人々を助けました。また公職について、村のためによくつくしました。
五十歳になったとき、忠敬は家を長男にゆずり、翌年江戸に出ました。そのまま引っ込んで、らくをしようというのではなく、もっぱら学問をして世のため人のためにつくそうと、志(こころざ)したのでありました。忠敬はもとから天文・暦法が好きで、これまでも仕事のひまひまには怠らず勉強をしたので、その知識はかなり深くなっていきました。
ある日、高橋至時(たかはしよしとき)という天文学者をたずね、その西洋暦法にくわしいのに感心して、自分よりも十九も下の至時の弟子になって、教えを受けることとしました。それから数年間、うまずたゆまず勉強しましたので、おおいに上達し、とくに観測の術にかけては、同門中忠敬におよぶ者がないほどまでになりました。
五十六歳のとき、人跡まれな北海道の南東海岸を測量し、地図を作って幕府に差し出しました。そののち、幕府の命を受けてあちらこちらの海陸を測量することになり、寒暑(かんしょ)をいとわず遠方まで出かけて、とうとう全国の測量を成しとげました。
そのときすでに七十二歳に達していましたが、それからもからだの自由がきかなくなるまで、日本の地図を作ることに努めて、ついに大中小三種の精密な地図を作りあげたのでした。わが国の正しい位置や形状が初めて明らかになったのは、まったく忠敬が勤勉であったたまものであります。
(第五期 国民学校修身教科書 初等科 四)