円山応挙
(まるやま・おうきょ)
円山応挙は、毎日、京都の祗園に社へ行って、たくさんの鶏が遊んでいるありさまをじっと見ていました。人々は応挙の様子を見て、ばか者ではないかと思いました。こんなふうにして、一年もたって、ついたてに鶏の画を描きますと、まるで生きているようにできました。そのついたては、祗園の社におさめられました。それを見る人々は、みんなりっぱだとほめるだけでしたが、ある日、野菜売りのおじいさんが、しばらく見ていたのち、「鶏のそばに草の描いてないのがたいそうよい。」とひとりごとをいいました。応挙は、それを伝え聞いて、おじいさんの家へ行き、そのわけをたずねますと、おじいさんは、
「あの鶏の羽の色は冬のものです。それで、そばに草の描いていないのがたいそうよいと思ったのです。」
と答えました。
そのあとも、応挙は、町を歩いていても、鶏がいると足をとどめて、その様子をじっと見つめて、いつまでもいつまでも動こうとしないことが、よくありました。こんなに熱心であったので、応挙の描いた鶏には、だれもおよぶ者がありませんでした。
また、あるとき、応挙は、寝ている猪を描こうとしました。しかし、まだ、生きている猪を見たことがないので、よく来る柴売女(しばうりおんな)に、猪を見つけたら知らせてくれるようにたのんでおきました。
ある日、その柴売女が、
「今、猪を見つけました。」
といって、知らせにきました。応挙は飛びたつ思いでさっそくかけつけますと、なるほど、竹やぶの中に、一匹の大きな猪が寝ていました。応挙はじっと猪を見て、手早くそれを写生して帰りました。
まもなくりっぱな猪の画ができあがりました。そこである日、鞍馬(くらま)から来た炭売りのおじいさんに見せました。炭売りのおじいさんは、しばらく眺めていましたが、
「これは、病気にかかっている猪を写したものではないでしょうか。猪は眠っていても、背中の毛が逆立ち、足にも力が入っていて、なかなか人をそばに寄せつけない勢いがあるものです。」
と言いました。その後で、さっきの柴売女がやってきて、
「あのときの猪は、まもなく、あそこで死にました。」
と知らせました。
応挙はせっかく苦心して描きあげた画を破ってしまいました。そうして、あらためて達者な猪の寝ているところを見て、精いっぱいの力をこめて描きました。それを炭売りのおじいさんに見せますと、
「これです、これです。このとおりです。」
といって感心しました。世間の人も、この画を見てほめそやし、一時に応挙の評判が上がりました。
(第四期 尋常小学修身書 巻四)
牛島謹爾
(うしじま・きんじ)
牛島謹爾は久留米在(くるめざい)の古くからある農家に生まれ、明治二十一年、二十五歳のとき、志を立ててアメリカ合衆国に渡った。そのころの渡米者は、たいてい修学を目的とし、将来は日本に帰って官途にでもつこうという者が多かった。その中で、謹爾は一人で田舎の農園に行き、馬鈴薯(ばれいしょ)(ジャガイモ)作りの名人といわれる人に従って農事をならった。さて、この経験をもとに自分の農園を経営したいと思って、カリフォルニア州中部のある村で、六ヘクタールばかりの土地を借り、そこに馬鈴薯や豆などを作りはじめた。元来この地方は、二つの大河がまさに合流せんとする間にはさまれた広大な沼地で、人をも隠す水草がぼうぼうと生い茂り、中には野牛がすんでいたほどで、三十年来、白人がいくどか開拓を試みたが、とうてい望みがないと放棄した土地であった。謹爾はここに鍬(くわ)を入れたのである。それよりのちは、毎年、風害・水害などにあわないことはないといってもよいぐらい。あるいは不作で幾日もカボチャばかりを食っていたことがあり、また豊作を喜んでいると一夜ですっかり作物を洗い流されたこともある。けれども失敗にあうごとにその勇気はますます加わり、去年よりも今年、今年よりも来年としだいに手を広げて、渡米の十年目には百五十ヘクタールの耕地を得、その年初めて事業の基礎を確立することができた。謹爾はそれになお満足せず、ますます耕地を広げ、主として馬鈴薯の栽培をなし、あるいは天災により、あるいは財界の影響によってしばしばつまずいたけれども、不撓不屈(ふとうふくつ)よく万難(ばんなん)を排して、ついに土地を開拓すること四万ヘクタールにおよび、洪水の憂(うれ)いを除き、地方の開発をうながした。そうして馬鈴薯の産額は年五百万俵にのぼり、カリフォルニア州の馬鈴薯の年産額の八割以上をその農園で占め、州の市場を左右するまでになった。このようにして謹爾の産業上の功績はあまねくかの地の人に認められ、「馬鈴薯王」と称せられるに至った。
謹爾が巨富(きょふ)を作ったのち、錦をきて故郷に隠退(いんたい)することをすすめる人もあったが、「それはひどくいっぱいに小魚を釣って満足するようなものだ。自分は願わくば幽谷(ゆうこく)の熊を捕えたい。」といって従わなかった。晩年には、さらにメキシコや南米に発展の地を求めていたが、その計画の実現を見ないなか、大正十五年、六十三歳で病に倒れて、かの地の土となった。
スタンダード大学のジョルダン名誉総長は彼の死を悼(いた)んで、
「君は多年カリフォルニア州におけるもっとも信用あり、かつ尊敬せられた実業家の一人であった。君は十五年間、在米日本人会長として活動したが、付近の日本人間におけると同様に、米国人間にもなかなか勢力があった。君は事業に関する契約については証書を用いなかったけれども、決してその信用を毀損(きそん)することがなかったそうだ。」
といった。謹爾は多年日米両国親善のために力を尽くした。
(第四期 高等小学修身書 巻一)
山田長政
(やまだ・ながまさ)
今から三百二十年ばかり前に、山田長政は、シャムの国へ行きました。シャムというのは、今のタイ国のことです。
そのころ、日本人は、船に乗って、盛んに南方の島々国々に往来し、たくさんの日本人が移り住んで、いたるところに日本町というものができました。シャムの日本町には、五千人ぐらい住んでいたということです。
二十何歳かでシャムへ渡った長政は、やがて日本町の頭になりました。勇気に満ち、しかも正直で、義気(ぎき)のある人でした。
シャムの国王は、ソンタムといって、たいそう名君でありました。
長政は、日本人の義勇軍をつくり、その隊長になって、この国のために、たびたび手柄を立てました。
国王は、長政を武官に任じ、のちには、最上の武官の位置に進めました。
日本人の中で、武術にすぐれ、勇気のある者六百人ばかりが、長政の部下としてついていました。長政は、これら日本の武士と、たくさんのシャムの軍兵をひきいて、いつも、堂々と戦いに出かけました。
長政が、緋縅(ひおどし)のよろいを着け、りっぱな車に乗り、シャムの音楽を奏しながら、都に凱旋(がいせん)するときなどは、見物人で、町という町がいっぱいだったということです。
長政は、こうして、この国のために、しばしば武功(ぶこう)を立て、高位高官にのぼりましたが、その間も、日本町のために活動し、日本へ往来する船の世話をし、海外貿易を盛んすることに努めました。身分が高くなってからは、ほとんど毎年のように、自分で仕立てた船を日本へ送っていました。
長政がシャムへ渡ってから、二十年ばかりの年月が過ぎました。名君の誉(ほま)れ高かったソンタム王もなくなり、年若い王子が、あいついで国王になりました。こうしたすきに乗じたのか、そのころ、シャムの属地(ぞくち)であったナコンという地方が、よく治まりませんでした。そこで、国王は、あらたに長政をナコン王に任命しました。
そのため、王室では、盛んな式が挙げられました。まだ十歳であった国王は、とくに国王の用いるのと同じ形の冠を長政に授け、金銀や宝物を、山のように積んで与えました。
長政は、いつものように、日本の武士とたくさんのシャムの軍兵を連れて、任地へおもむきました。すると、ナコンは、長政の威風(いふう)を恐れて、たちまち王命を聞くようになりました。
惜しいことに、長政は、ナコン王になってから、わずか一年ばかりでなくなりました。
長政は、日本のどこで生まれたのか、いつシャムへ行ったかもはっきりしません。それが一度シャムへ渡ると、日本町の頭となり、海外貿易の大立者(おおだてもの)となったばかりか、かの地の高位高官に任ぜられて、日本の武名を、南方の天地にとどろかせました。
外国へ行った日本人で、長政ほど高い地位にのぼり、日本人のために気をはいた人は、ほかにいないといってもよいでしょう。
(第五期 国民学校修身教科書 初等科 一)
でん子
(でんこ)
でん子は、自分の着古しの仕事着をつくろっていました。まだ十二歳ですが、非常に利口で、ほがらかな子どもです。七、八歳のときから機(はた)織りの稽古をして、今ではおとなに負けないほど、上手になりました。
つくろっている仕事着は、ところどころ白くさめて、自然と、模様のようになっています。
「まあ、おもしろい。」
と思いながら、でん子の目は、急に生き生きとしました。仕事着の糸をていねいにときほぐして、黒と白の入りまじったぐあいを熱心に調べはじめました。それからあとは、ご飯を食べるのも忘れて、一心に工夫していました。
四、五日たって、でん子は織り残りの白い糸を、ところどころ固くくくって、
「これをこのまま染めてください。」
と染物屋にたのみました。
染めができると、くくり糸をといて、縦糸と横糸とに、うまくとり合わせて、機にかけました。織ってみると、でん子の思ったとおりに、紺色の地に、雪かあられの飛び散ったような、美しい模様が現れました。
できあがったものは、縞(しま)でもなければ、まだらでもありません。今までだれも見たことにない、めずらしい織り物でありました。
父母や近所の人たちは、目をみはって、
「これは、変わったものだ。めずらしいものを思いついたね。」
といって、ほめました。でん子は、いろいろな柄を、次々に工夫して織りあげました。
でん子の父は、「久留米がすり」と名をつけて、それを世に広めました。
「めずらしい柄だ。女の子が思いついたのだそうだ。」
「十二の娘が作ったとは、えらいものだ。」
世間では、たいそうな評判です。そのうちに、織り方をならいたいという者が、出てくるようになりました。
(第五期 国民学校修身教科書 初等科 二)