読書というものの人生における意味は非常に重大で、一口で言ったら「心の養分」とう言葉が最もよく当たると思います。
私たちはこの肉体を養うために、「からだの養分」については一度の食事さえ欠くことは滅多にありません。ところが「心の養分」となると、果たしてどれほどの養分を与えているといえるでしょうか。「からだの養分」と比べて、いかにおろそかにしているかということは改めて言うまでもないでしょう。
読書は私たちの生活の中で、最も重要なものの1つであり、ある意味では、人間生活は読書がその半ばを占めるべきだとさえ言えましょう。すなわち私たちの生活は、その半ばを読書に費やし、他の半分は、読書によって知りえたところを実践して、それを現実の上に実現していくことだとも言えます。
人にして、いやしくも真に大志を抱く限り、そしてそれを実現しようとする以上、何よりもまず偉人や先哲の歩まれた足跡と、そこにこもる思想や信念のほどを学ぶ必要があります。実際に、偉大な先人である二宮尊徳や吉田松陰は寝る間を惜しんで書物をむさぼり読んでいたようです。
読書は私たちにとっては「心の養分」ですから、「一日読まざれば一日衰える」と考えておく必要があります。
令和の寺子屋では、講師がこれまで読んできた1,000冊の本から、参加者のみなさんに今必要であると考える本を選んで課題本とさせていただきます。
日本で最初に読書会が始まったのは江戸時代です。
参加者が同じ本を読み討論する読書会は、当時「会読」と呼ばれており、伊藤仁斎、荻生徂徠といった思想家たちのもと、主に儒学の学習のために用いられ、明治初期にかけて大いに流行したそうです。この会読は、異なる意見を持つ他者への対応を通じて自己修養する場でした。
自分と同じ意見を持つ人ばかりの場であれば1人で勉強しているのと同じことです。みんなで行う読書会でこそ習得できる学びがあることに、当時の思想家たちは気づいていたのだと思います。また当時は、身分の違いを超えて対等に議論を交わせる場というのも、大変貴重なものだったようです。
ところが、せっかく盛り上がったこの「会読」も、明治中期になって急速にすたれてしまいました。皮肉なことにその理由は、明治維新に端を発した身分制社会の崩壊でした。誰もが立身出世できる世の中になると、学びはただちに実利的な目的のための手段となってしまいました。新しい時代を生き残るために必要なのは、競争相手を出し抜くことであり、そのために必要とされたのは、知を共有しあうことのない密かな読書。社会変化のあおりを上、読書は再び1人で行うものとなり、会読はいつしかすっかり忘れ去られてしまいました。
しかし現代、シェアの時代と言われて久しい昨今こそ、本によって得た知を他人と共有する、あるいは本の知識を議論によって深める「会読」の要素は、再び強く求められているのかもしれません。
欧米で読書会は「ブッククラブ」と呼ばれ、古くからたくさんの人たちに親しまれてきました。仲間内で行うものから企業が開催するものまで、規模も形も様々です。なかでもイギリスには、入会までに何年も待たされる、老舗の人気読書会まであるそうです。ただ本について語るばかりでなく、大人同士の社交の場としても活用されています。