01.
よく学び、よく遊べ
02.
時刻を守れ
03.
怠けるな
04.
友だちは助け合え
05.
けんかをするな
06.
元気よくあれ
07.
食べ物に気をつけよ
08.
行儀をよくせよ
09.
始末を浴せよ
10.
物を粗末に扱うな
11.
親の恩
12.
親を大切にせよ
13.
親のいいつけを守れ
14.
兄弟仲良くせよ
15.
家庭
■祖国を大切にしよう
16.
天皇陛下万歳
17.
木口小平(きぐちこへい)は敵の弾に当たりましたが、死んでもラッパを口から離しませんでした。
■正直に生きよう
18.
寅吉(とらきち)の投げた毬(まり)がそれて、隣の障子(しょうじ)を破りました。寅吉はすぐ隣へ謝りに行きました。
19.
この子はたびたび「狼が来た」と言って、人を騙しました。それで本当に狼が出てきた時、誰も助けてくれませんでした。
20.
清吉(せいきち)は鉛筆を拾いましたが、落とした子供にそれを返してやりました。
■思いやりをもとう
21.
お母さんが病気で寝ているので、近所の人が来て、この子の学校へ持っていく弁当をこしらえて渡しています。
22.
目の見えない人が水たまりの中へ踏みこもうとしました。小三郎は手を引いて、道のよいところへ連れて行きました。
23.
太郎が次郎に「私たちも外へ出られなければ苦しいではないか。」と言ってきかせたので、次郎はツバメを出してやりました。
■よい子どもになろう
24.
お千代(ちよ)が道端へごみを捨てようとしました。お父さんが「ごみをそんなところへ捨てると、人が迷惑します。」と言って止めています。
25.
ここにいる生徒は先生の教えを守ったよい子どもです。いま終業証書をいただいています。
終わり
■家族を大切にしよう
01. 孝行
お房(ふさ)は小さい時から子守などに雇われて、家の暮らしを助けました。また父が草履(ぞうり)や草鞋(わらじ)を作るそばで藁(わら)を打って手伝いました。その後奉公(ほうこう)に出ましたが、暇さえあれば、許しを受けて家に立ち寄り、二親(ふたおや)を慰めました。
02. 親類
正夫(まさお)の叔母が子どもを連れて正夫の家に来ました。正夫の父母は喜んで叔母を座敷へ通し、いろいろの話をしています。正夫もおもちゃや絵本を出して、いとことおもしろく遊んでいます。
03. 兄弟仲良くせよ
お八重(やえ)は弟の三郎と野原へ行きました。レンゲソウやタンポポやスミレがきれいに咲いています。二人は花を摘んで遊びましたが、三郎の摘んだ花があまり少ないので、お八重は自分のを分けてやりました。
■礼儀を守ろう
04. 自分のことは自分でせよ
お八重が三郎に学校へ行こうと言った時、三郎はまだ用意が出来ていませんでした。慌てて姉に「本や手帳をかばんに入れて下さい。」と頼みました。母が「自分のことは自分でなさい。」と言いました。それで三郎は自分でかばんの始末をして、姉と一緒に学校へ行きました。
05. 勉強せよ
ここに二人の男がいます。二人は元同じ学校にいました。一人は先生の戒めを守らず、怠けてばかりいたので、こんな哀れな人となりました。一人はよく先生の教えを聞いて、勉強したので、いまは立派な人となりました。
蒔かぬ種は生えぬ。
06. 決まりよくせよ
お竹(たけ)はお絹の家へ遊びに行って、おもしろく遊んでいましたが、十二時に近くなったので、急に帰ろうとしました。お絹も妹もいましばらくと止めましたけれども、お竹は「ご飯ですから、帰らなければなりません。ご飯を済ましてまた来ます。」と言って帰りました。
07. 自慢するな
二羽の雄鶏(おんどり)が蹴合(けあ)いをしました。一羽は負けて小屋の隅へ逃げ込みました。勝った方は屋根の上へ飛び上がって、勢いよく勝鬨(かちどき)をあげました。この時大きな鷲(わし)が飛んできて、その威張っている雄鶏を一掴みに掴んでいきました。
■強くなろう
08. 臆病であるな
臆病な人が闇夜(やみよ)に寂しい道を通りかかりました。垣の上から長い顔のバケモノがこちらをにらんでいるように見えたので、大層驚いて友だちの家へ逃げこみました。友だちがすぐその人と一緒に行ってみると、それはひょうたんが下がっているのでした。
09. 体を丈夫にせよ
二人の兄弟は、体が丈夫でなければ立派な人になれないと学校で教えられました。それから二人は飲み物や食べ物に気をつけ、朝は早く起きることにしました。また冷水摩擦や深呼吸が体のためによいと教えられましたから、二人は次の朝からそれを始めました。
■けじめをつけよう
10. 友だちに親切であれ
文吉(ぶんきち)が大きな風呂敷包みをそばに置いて、松の木の下に休んでいました。小太郎(こたろう)は遊びに出た途中で、それを見て、文吉に「その包みは重そうだから、二人で持っていきましょう。」と言いました。そうして包みの結び目の下へ竹を通して持っていきました。
11. 不作法なことをするな
文吉の家へ小太郎が遊びに来て、絵本を見ておりました。しばらくして文吉は母に呼ばれたので、急いで絵本をまたいで行きました。母は用を言いつけた後で、「ものをまたいだり踏んだりするような不作法なことはしてはなりません。」と言ってきかせました。
12. 人の過ちを許せ
小太郎は野原へ出て文吉の来るのを待っていました。その間に文吉から借りた毬(まり)を過って川の中へ落としてなくしました。それで文吉が来た時、そのわけを話して詫びました。文吉は「過ちだから仕方がない。」と言って、許してやりました。
13. 悪い勧めに従うな
小太郎と文吉が野原で遊んでいると、四、五人の友だちが来て、「堤の下へ行って遊ぼう。」と誘いましたので、二人は着いていきました。すると友だちのうちの一人が「小屋に隠れていて通る人を脅そうではないか。」と言いだしました。二人が「それは悪い遊びだ。」と言って止めましたが、みんながききませんので、二人は分かれて帰りました。
14. 正直
松平信綱(まつだいらのぶつな)は将軍の屋敷で、朋輩(ほうばい)と戯れて大切な屏風(びょうぶ)を破りました。まもなく将軍がそこを通りかかり、「これは誰が破ったのか。」ととがめました。信綱は「私が破りました。」と少しも隠さず申し上げてお詫びしますと、将軍はかえってその正直なのをほめました。
正直は一生の宝。
■ありがたいお言葉
15. 天皇陛下
天皇陛下が天皇におなり遊ばした時、宮中(きゅうちゅう)でお儀式を行わせられました。その時、天皇陛下は私たちを一層幸せにし我が国をますます盛んにしようとの有り難いお言葉を賜(たまわ)りました。
■軍神・広瀬武夫
16. 忠義
海軍中佐・広瀬武夫(ひろせたけお)は旅順(りょじゅん)の港口(みなとぐち)をふさぐため、闇夜に汽船に乗って出かけました。敵の撃ちだす大砲の弾の中で勇ましく働いて引き上げようとしましたが、杉野兵曹長(へいそうちょう)がいませんから、三度も船の中を尋ねまわりました。いよいよいないので、短艇(たんてい)に乗り移って帰りかけた時、中佐は大砲の弾に当たって立派な戦死を遂げました。
17. 約束を守れ
広瀬武夫はロシアから帰る道で、大層難儀(たいそうなんぎ)なところを通ることになりました。その前に武夫はある子どもとロシアの郵便切手を土産に持って帰る約束をしたことを思い出しました。それでその子どもに宛てた手紙を書いて、郵便切手を入れ、それを自分の兄のところへ送って「もし私が死んだら、この手紙を子どもに届けて下さい。」と頼んでやりました。
■人を敬おう
18. 恩を忘れるな
お鶴(つる)が母と一緒に隣村の祭を見に行ったことがありました。その時母にはぐれて、大層困っていましたら、この年寄りが親切にお鶴を連れて母を尋ねてくれました。お鶴はその恩をいつまでも忘れません。今も学校から帰る道であいさつをしています。
19. 祖先を尊べ
稲生ハル(いのうはる)は毎月一日十五日、その他祖先の命日には、朝早くから起き、体を清めて、仏壇の掃除をし、花を捧げ、香を焚き、色々供え物をしてお祀(まつ)りをしました。もし人から珍しい果物などをもらうことがあると、きっと仏壇に供えました。
20. 年寄りに親切であれ
お瀧と五郎が外へ遊びに出かけました。道に子どもが大勢集まっているので、何事があるかと立ち寄って見ますと、一人のお年寄りが体が不自由なので、落とした銭を拾うのに困っているのでした。二人は気の毒に思って、その銭を探し集めて年寄りに渡しました。
21. 召使いを労(いたわ)れ
この子は水をもらおうと思って女中を呼びましたが、すぐに来ませんので大層腹を立てました。そして女中が働いている井戸端へ駆けて行って、大きな声で叱りました。母がそれを聞きつけて、「そんなことに人を使ったり、腹を立てたりしてはいけません。召使いは労って使わなければなりません。」と言ってきかせました。
■我慢強くなろう
22. 辛抱強くあれ
娘の手に掛けていた糸がもつれてからまりました。もつれが急に解けないので、娘は母に「このもつれたところを切り捨てましょうか。」と言いますと、母は「いえ、いえ、辛抱して解いていけば解けないことはありません。」と教えました。それで娘は骨を折ってそのもつれを解きました。
23. 工夫せよ
十吉(じゅうきち)は自分で工夫して色々のおもしろいものを作って楽しんでいます。ある時は大工の切り捨てた木のきれを組み合わせてて家をこしらえました。またある時は木のきれで舟を作り、それから竹を削って帆柱を立て、白い布を母にもらって帆にしてかけ、池の上を走らせました。
24. 規則に従え
一人の子どもが土手に登りました。連れだっていた友だちが立て札を指して、「この通り、登ってはならないと書いてあります。規則に従わなければなりません。」と言って止めました。初めの子どもは「誰も見ていないから構わない。」と言いますと、友だちは「人が見ていなくても規則には従わなければなりません。早く下りなさい。」と言いました。それで、初めの子どもは悪いと気がついて土手を下りました。
25. 人の難儀を救え
一人の丁稚(でっち)が車を引いて坂道を上っていきましたが、ぬかるみにかかって、難儀をしていました。吉太郎は学校の帰りがけに、それを見て気の毒に思い、後から押し上げてやりましたので、やっと坂の上へ行くことが出来ました。丁稚は喜んでお礼を言いました。
26. よい子供
この子は先生の教えをよく守るよい子どもです。学校に行っても、家にいても、心がけがよく、友だちとは仲良くし、人から受けた恩を忘れず、自分のことは自分でし、いつも天皇陛下のご恩を有り難く思っています。その上ものもよく出来るので、今日学校で賞状をもらいました。父母は喜んで、「この後もますます骨を折ってよい人になるようにしなければなりません。」と言ってきかせています。
終わり
■皇后陛下のやさしさ
1. 皇后陛下
皇后陛下はお小さい時から、決まりよくあらせられました。お用いの御品は大切にお取り扱いになり、ご自身でご整頓になりました。また御学問や御運動などの日々の御決まりは正しくお守りになりました。陛下はまた大層お優しくあらせられ、人々をお憐(あわ)れみになりました。大正十二年に関東に大地震があった時、ご自身でたくさんの着物をお縫いになって、困っている人たちに賜りました。
2. 忠君愛国(ちゅうくんあいこく)
明治十年に熊本の城が賊軍(ぞくぐん)に囲まれました。城を守っていた谷少将は、城の中の様子を、遠方の官軍に知らせようと思い、その使いを伍長(ごちょう)谷村計介に言いつけました。計介は体に煤(すす)を塗り、破れた着物を着て、闇に紛れて城を出ました。途中で二度も賊軍に捕らえられ、色々の難儀な目にあいましたが、とうとう官軍の司令部に着いて、首尾よく使いの役目をしとげました。
3. 孝行
二宮金次郎(にのみやきんじろう)は、家が大層貧乏であったので、小さい時から、父母の手助けをしました。
金次郎が十四の時父が亡くなりました。母は暮らしに困って、末の子を親類へ預けましたが、その子のことを心配して毎晩よく眠りませんでした。金次郎は母の心を思いやって、「私が一生懸命に働きますから、弟を連れ戻して下さい。」と言いました。母は喜んでその晩すぐに親類の家へ行って、預けた子を連れて帰り、親子一緒に集まって喜び合いました。
孝は徳のはじめ。
4. 仕事に励め
金次郎は十二の時から父に代わって川普請(かわぶしん)に出ました。仕事をすまして、家へ帰ると夜遅くまで起きていて草鞋(わらじ)を作りました。そうしてあくる朝その草鞋を仕事場へ持って行って、「私はまだ一人前の仕事ができませんので、皆さまのお世話になります。これはそのお礼です。」といって人々に贈りました。
父が亡くなってからは、朝は早くから山へ行き、芝を狩り、薪(たきぎ)を取って、それを売りました。又夜は縄をなったり、草鞋を作ったりしてよく働きました。
5. 学問
金次郎は十六の時母を失いました。やがて二人の弟は母の里に引き取られ、金次郎は万兵衛(まんべえ)という叔父の家へ行って、世話になりました。
金次郎はよく叔父のいいつけを守り、一日働いて、夜になると、本を読み、字を習い、算術のけいこをしました。叔父は油がいるのを嫌って夜学(やがく)を止めましたので、金次郎は自分で油菜(あぶらな)を作り、その種を町へ持って行って油に取りかえ、毎晩勉強しました。叔父が又「本を読むよりはうちの仕事をせよ。」と言いましたから、金次郎は夜遅くまで家の仕事をして、その後で学問をしました。
金次郎は二十歳の時自分の家へ帰り、精出して働いて、後には偉い人になりました。
■真心を尽くそう
6. 整頓
本居宣長(もとおりのりなが)はたくさんの本を持っていましたが、いちいち本箱に入れてよく整頓しておきました。それで夜は明かりをつけなくても、思うようにどの本でも取り出すことができました。
宣長はいつもうちの人に向かって、「どんなものでも、それを探す時のことを思ったならば、しまう時に気をつけなければなりません。入れる時に少しの面倒はあっても入用(いりよう)の時に、早く出せる方がよろしい。」と言ってきかせました。
7. 正直
ある呉服屋に、正直な丁稚(でっち)がありました。ある時客の買おうとした反物(たんもの)に傷のあることを知らせたので、客は買うのをやめて帰りました。主人は大層腹を立て、すぐに丁稚の父を読んで「この子は自分の店では使えない。」と言いました。父は自分の子のしたことはほめてよいと思い、連れて帰って他の店に奉公(ほうこう)させました。この子はその後も正直であったので、大人になってから立派な商人になりました。それにひきかえて、先の呉服屋はだんだん衰えました。
8. 師を敬(うやま)え
上杉鷹山(うえすぎようざん)は細井平洲(ほそいへいしゅう)を先生にして、学問をしました。ある年平洲を江戸から米沢へ招きました。鷹山は身分の高い人であったけれども、わざわざ一里(いちり)あまりも迎えに出て、ある寺の門前で平洲を待ち受け、丁寧(ていねい)にあいさつしました。それから寺で休もうとして、長い坂道を上って行くのに、平洲より一足(ひとあし)も先へ出ず、又平洲がつまずかないように気をつけて歩きました。寺に着いた時も、丁寧に案内して、座敷へ通し、心をこめてもてなしました。
9. 友だち
友蔵(ともぞう)と信吉(しんきち)は親しい友だちで、同じ学校を卒業した後、二人とも同じ工場に雇われて一緒に働いていました。
ところが信吉は過ちがあって暇を出されました。友蔵は友だちのために色々と謝ってやりましたが、主人が許しませんので、仕方がなく、折を見てまた頼もうと思っていました。
ある時友蔵は新しい機械を工夫しました。主人はそれをほめて、「何でも望みをかなえてやる。」と言いました。友蔵は「それでは信吉を元の通りに使ってください。」と願って、すぐ許されました。主人は又「ほうびに家を作ってやろう。」と言いましたら、友蔵は「友だちが許されました上は外(ほか)に望みはございません。」と断りました。それからすぐに信吉を連れて帰って、二人で喜びました。
■決まりを守ろう
10. 規則に従え
春日局(かすがのつぼね)は時の将軍の乳母(うば)であった人で大層勢力がございました。ある夜遅く城に帰って来た時、門が閉まっていたので、供人(ともびと)が開けさせようとしましたら、門番の役人が「規則でございますから、上役(うわやく)の許しがあるまでは通すことは出来ません。」と言いました。局(つぼね)は「それはもっともなこと。」と言って、寒い夜風に吹かれながら門の開くまで外に待っていました。
11. 行儀(ぎょうぎ)
松平好房(まつだいらよしふさ)は小さい時から行儀のよい人で、自分の居間に居てもかりそめにも父母の居られる方へ足を伸ばしたことはありませんでした。よそへ行く時は、そのことを両親に告げ、帰って来た時は、必ず両親の前へ出て、その日あったことを話しました。父母から物をもらう時は、丁寧にお辞儀をしてそれを受け、いつまでも大切に持っていました。又人が好房の父母の話をすると、行儀よく居直(いなお)って聞きました。
■落ち着いて行動しよう
12. 勇気
木村重成(きむらしげなり)は豊臣秀頼(とよとみひでより)の家来(けらい)で、勇気のある人でした。秀頼が徳川家康と戦(いくさ)をした時、重成は二十歳ばかりでしたが、勇ましい働きをしました。又重成は家康(いえやす)の所へ使いに行きました時、少しも恐れず、家康の前へ出て、書き物を受け取ろうとしました。見ると家康の血判(けっぱん)が薄かったので、「今一度、目の前でして下さい。」と怖(お)めず臆せず言いましたので、家康はやむを得ず改めて血判をしました。重成が帰った後で、家康はじめその場にいた人々は皆重成の立派な振る舞いをほめました。
13. 堪忍
重成の十二、三歳のころでした、大阪の城の中で掃除坊主(そうじぼうず)と戯(たわむ)れていたら、坊主が腹を立てて重成を散々にののしった上、打ってかかろうとしました。その時重成は少しも取りあわずにいたので、見ていた人々は重成を臆病者と思ってそしりました。後に徳川方(とくがわがた)との戦が始まった時、重成が外(ほか)の人にまして勇ましく働いたので、前にそしった人々も、本当の勇気のある人だと感心しました。
成らぬ堪忍、するが堪忍。
14. 物事に慌てるな
毛利吉就(もうりよしなり)の奥方(おくがた)が住んでいた屋敷の近所に火事がありました。家来(けらい)の人々は驚いて「早くお立ち退きになるように。」と勧めました。その時奥方は人々の慌てるのを止(とど)め、「まず銘々(めいめい)が大切にするものを片付けよ。慌ててこちらからも火を出すことのないように、火の元に気をつけよ。立ち退く時には女子ども(おんなこども)は自分と一緒に行くようにせよ。」と指図をしました。人々はその落ち着いた指図に励まされ、力を合わせて火を防ぎましたので、屋敷は無事に残りました。
■歴史を知ろう
15. 皇大神宮(こうだいじんぐう)
ここに年経た(としへた)杉の木の茂りあった中に、尊いお宮が見えます。この絵は伊勢にある皇大神宮の御有様(おんありさま)を写したものでございます。皇大神宮は天皇陛下のご先祖天照大神(あまてらすおおみかみ)をお祀り(まつり)申してあるお宮で、陛下にあらせられましてもつねにご大切にあそばされます。われわれ日本人はこのお宮を敬(うやま)わなければなりません。
16. 祝日
わが国の祝日は新年・紀元節(きげんせつ)・天長節(てんちょうせつ)・明治節(めいじせつ)でございます。新年は年の初めを祝い、紀元節は神武天皇(じんむてんのう)がご即位の礼を行わせられた日を祝い、天長節は天皇陛下のお生まれになった日を祝うのでございます。又明治節は明治天皇の御恩を仰ぎ、明治の御代(みよ)の栄(さかえ)を祝う日でございます。
17. 倹約
徳川光圀(とくがわみつくに)は女中(じょちゅう)たちが紙を粗末にするのをやめさせようと思い、冬の寒い日に紙すき場を見せにやりました。女中たちは川の上の桟敷(さじき)に居て、寒い風に吹かれながら、紙すき女が水の中で働く有様を見て帰りました。そこで光圀は「一枚の紙でも、紙すき女が苦労してこしらえたものであるから、無駄に使ってはならぬ。」と言ってきかせました。女中たちはなるほどと悟って、それからは紙を粗末にしないようになりました。
18. 慈善(じぜん)
昔、羽前(うぜん)の鶴岡に鈴木今右衛門(すずきいまえもん)という慈善の心の深い人がありました。大飢饉(だいききん)の時、田畑をはじめ家の道具まで売って多くの人を助けました。今右衛門の妻も心立てのよい人で、施しをするために、着物類を売り払い、晴れ着が二枚だけ残っていましたが、「着替えがなくなって外へ出ることが出来なければ、櫛(くし)やかんざしの入用(いりよう)もありません。これらの物を金に換えて、もっと多くの人を助けましょう。」と言って、晴れ着とともに櫛・かんざしも皆売ってしまいました。
今右衛門夫婦に十二歳になる娘がありました。ある寒い日同じ年ごろの女の子が物もらいに来ました。母はそれを見て、娘に「あの子は単物(ひとえもの)一枚で震えています。おまえの来ている綿入れ(わたいれ)を一枚やってはどうです。」と言いましたら、娘はすぐに上に来ている方のを脱いでやりました。
我が身をつねって、人の痛さを知れ。
19. 恩を忘れるな
永田佐吉(ながたさきち)は十一の時、美濃の竹ヶ鼻(たけがはな)から尾張の名古屋へ出て、ある紙屋に奉公しました。佐吉は正直者で、よく働きますから、主人にかわいがられていました。又暇があると学問をして楽しんでいました。朋輩(ほうばい)の者どもが佐吉をねたんで店から出してしまうように主人に迫りました。主人は是非なく佐吉に暇をやりました。
佐吉は家に帰ってから、仲買(なかがい)などをして暮らしを立てていましたが、主人の恩を忘れないで、道のついでには、きっと訪ねて行きました。その後紙屋は衰えましたが、佐吉は折々(おりおり)見舞って、物を贈り、暮らしの助けにしました。
■健康を大切にしよう。
20. 寛大
昔、貝原益軒(かいばらえきけん)という名高い学者がありました。ある日外に出ていた間に留守居(るすい)の若者が隣の友だちと、庭で相撲をとって、益軒が大切に育てていた牡丹(ぼたん)の花を折りました。若者は心配して、益軒の帰りを待ち受け、隣の主人に頼んで、過ちを詫びてもらいました。益軒は少しも腹を立てた様子がなく、「自分が牡丹を植えたのは楽しむためで、怒るためではない。」と言って、そのまま許しました。
21. 健康
益軒は小さい時には体が弱かったので、常に養生(ようじょう)に気をつけました。色々の書物を読む折に、養生のことが書いてある所があれば、書きぬいておいて、その通り守りました。それで体が次第に丈夫になって、年をとっても衰えず、八十五歳までも長生きをして、多くの本を著(あらわ)すことが出来ました。
■中江藤樹(なかえとうじゅ)と毛利元就(もうりもとなり)
22. 自分の物と人の物
近江(おうみ)の河原市(かわらいち)というところに一人の馬子(まご)がありました。ある日一人の飛脚(ひきゃく)を馬に乗せて、ある宿まで送り、家に帰って馬の鞍(くら)を下すと、金がたくさんに入っている財布が出ました。これは先に乗せた飛脚の忘れた物に違いないと思って、すぐに前の宿へ走って行って、飛脚に会い、詳しく尋ねた上でその財布を渡しました。飛脚は大層喜んで「この金がなくなると、私の命にもかかわるところでした。あなたの御恩はことばで言い尽くすことが出来ません。」t言って厚く礼を述べ、「お礼の印に。」と金を出しました。しかし馬子は「あなたの物をあなたが受け取るのに、何でお礼などということがありましょう。」と言って、中々受け取りませんでした。(注・・・この馬子は近江聖人(おうみせいじん)といわれた中江藤樹の教えを受けていたと伝えられています。中江藤樹は江戸時代初期の陽明学者で数々の門人(もんじん)を導きました。
23. 共同
ある時毛利元就はその子の隆元(たかもと)・元春(もとはる)・隆景(たかかげ)の三人に一つの書き物を渡しました。その中に「三人とも毛利の家を大切に思い、互いに少しでも、隔(へだ)て心を持ってはならぬ。隆元は二人の弟を愛し、元春・隆景はよく兄に仕えよ。」とありました。又隆元に別の書き物を渡して、「あの書き物を守りとして、家の栄えをはかれよ。」とねんごろに戒(いまし)めました。それで、兄弟一緒に名を書き並べた請書(うけしょ)を父に差し出し、「三人が共同して、御戒め(おんいましめ)を守ります。」と誓いました。
その後隆元は早く死んで、その子の輝元(てるもと)が家を継ぐことになりましたが、元春・隆景はよく元就の戒めを守り、心を合わせて輝元を助けたので、毛利家は長く栄えることになりました。
■助け合おう
24. 近所の人
相模のある村に佐太郎(さたろう)という人がありました。家が貧しかったけれども、よく近所の人に親切を尽くしました。ある時近所の人の家の屋根が損じているのを見て、「なぜ直さないのですか。」と尋ねたら、その人が「貧乏で直すことが出来ません。」と答えました。そこで佐太郎は村中の家からわらを少しずつもらい集め、自分も出して、その屋根を直させました。又村で火事にあった人があると、自分のやぶの竹を切って、その人に贈りなどしました。
25. 公益
佐太郎の住んでいた村の往来(おうらい)の土橋は度々損じて、人々が難儀をしました。佐太郎は村役人となった時、役人仲間と相談をして、銘々(めいめい)の給料を少しずつ蓄えておいて、その金で石橋に架けかえました。それからは長く橋の損じることがなくなって、大層便利になりました。
その外にも、佐太郎は色々と村のためになることをしたので、人々に尊ばれ、村役人の頭に取り立てられました。
26. 生き物を憐(あわれ)め
昔、曽木山中(そぎさんちゅう)に孫兵衛(まごべえ)という馬子(まご)がありました。ある時一人の僧がその馬に乗りました。道の悪い所にかかると、孫兵衛は「親方危ない、危ない。」と言って馬を助けてやりました。僧は不思議に思って、そのわけを尋ねましたら、孫兵衛は「私ども親子四人はこの馬のおかげで暮らしておりますから、親方と思って労(いたわ)るのでございます。」と答えました。やがてある宿へついて、僧は賃銭(ちんせん)を渡しますと、孫兵衛は、その中で餅(もち)を買って馬に食べさせました。それから自分の家の前へ行くと、孫兵衛の妻がすぐに出て来て馬にまぐさをやって労りました。僧はそれを見て孫兵衛夫婦の心がけのよいのに深く感心しました。
27. よい日本人
よい日本人となるには、つねに天皇陛下・皇后陛下の御徳(おんとく)を仰(あお)ぎ、又つねに皇大神宮を敬(うやま)って、忠君愛国(ちゅうくんあいこく)の心を起こさなければなりません。
父母に孝行を尽くし、師を敬い、友だちには親切にし、近所の人にはよく付き合わなければなりません。
正直で、寛大で、慈善の心も深く、人から受けた恩を忘れず、人と共同して助け合い、規則には従い、自分の物と人の物との分かちをつけ、又世間のために公益(こうえき)をはからなければなりません。
その外行儀をよくし、物を整頓し、仕事に骨折り学問に励み、体の健康に気をつけ、勇気を養い、堪忍の心強く、物に慌てないようにし、又倹約の心がけがなければなりません。
かように自分の行いを慎んで、よく人に交わり、世のため人のために尽くすように心がけるのは、よい日本人になる大切なことです。そうしてこれらの心得は真心から行わなければなりません。
終わり