勤労・勤勉

刻苦勉励(こっくべんれい)

 二宮金次郎

(にのみや・きんじろう)

 金次郎の村の境を流れている川には、たびたび大水が出て、土手をこわしました。そのために、村では、どの家からも一人ずつ出て、毎年、川普請(かわふしん)をしました。

 金次郎も、年は若いがこの川普請に出て働きました。しかし、まだ力が足らないので、おとなにはかなわないと思って、どうにかして仕事のたしになることはないかと考えました。そうして、昼の仕事をすませて家へ帰ると、夜遅くまで起きてわらじを作り、あくる朝、それを仕事場へ持っていって、

「私は、まだ一人前の仕事ができませんから、みなさんのお世話になります。これはそのお礼です。」

 といって、みんなに贈りました。しかし、金次郎は、人の休んでいる間でも、休まず働いたので、土や石を運ぶことは、かえっておとなよりも多いほどでした。

 金次郎は、家でもよく働きました。朝は早くから山へ行って、柴を刈り、たきぎをとり、それを売って金に換えました。また、夜はなわをなったり、わらじを作ったりして、少しの時間もむだにしませんでした。こうして、母を助けて、小さい弟たちを養いました。

 

 金次郎が十六歳のとき、母がなくなりました。

 それで、二人の弟は、母の生まれた家に引き取られ、金次郎は、おじの家に世話になることになりました。

 金次郎は、おじのいいつけを守って、一日中よう働きました。そうして、夜になると、本を読み、字をならい、算術の稽古(けいこ)をしました。しかし、おじは、油がいるので、学問をすることをとめました。金次郎は、

「自分は、めぐり合わせが悪くて、よその世話になっているが、今、学問しておかないと、一生無学の人になって、家を盛んにすることもできまい。自分で油を求めて学問をするのなら、よかろう。」

 と思いました。

 そこで、自分で荒地を開いて油菜をつくり、その種を油屋へ持っていき、油に取りかえてもらって、毎晩、学問をしました。しかし、おじがまた、

「本を読むよりも、うちの仕事をせよ。」

 といいましたので、夜遅くまでおじの家の仕事をして、そのあとで、学問をしました。

 二十歳のとき、金次郎は、荒れはてた自分の家へ戻りました。また、世のため、人のためにつくして、あとあとまでも尊ばれる、りっぱな人になりました。

(第四期 尋常小学修身書 巻三)


勉強と規律

 渡辺崋山

(わたなべ・かざん)

 登(のぼる)(崋山)は人のすすめにより、ある師匠について画(え)をならうことになりました。

 登は、母からわずかな金をもらっては紙を買い、夜昼熱心に稽古(けいこ)をしていましたが、師匠に十分なお礼をすることができなかったため、二年ばかりで断られました。登は一日も早く上手になって、父母を安心させようと思っていましたから、たいそう力を落として、泣き悲しみました。父は、それを見て、

「それくらいのことで力を落とすようではだめだ。ほかの師匠についてしっかり勉強するがよい。」

 といってきかせました。

 登は、父のことばに励まされて、また、ほかの師匠につきました。その師匠は、気のどくに思って親切に教えてくれ、登も一心に勉強しましたので、画がぐんぐん上手になりました。そこで、登は、画を描いてそれを売り、うちの暮らしを助けながら、なお熱心に稽古に励みました。

 その間に、登は、また学問にも励みましたが、ひまが少ないので毎朝早く起きてご飯をたき、その火のあかりで本を読みました。

 カンナン、汝(なんじ)ヲ玉ニス。

 

 登は、父が亡くなってから、そのあとをついでだんだん重い役に取りたてられました。

 登は、たいそうきまりのよい人でした。重い役になっても、うちにいるときは、朝・昼・晩、それぞれ時刻にわりあてた仕事の時間を作って、そのとおり行いました。

 時間割は、だいたい次のようなものでした。

 

一、午前四時から午前六時まで

これまで読んだ本の復習をすること。また、その日にすべきことを考えること。

 

一、午前六時から午前八時まで

本を読むこと。あるいは児童に教えること。

 

一、午前八時から午前十時まで

前の続き。あるいは、撃剣(げっけん)などの稽古をすること。

 

一、午前十時から正午(十二時)まで

人からたのまれた画を描くこと。

 

一、正午(十二時)から午後二時まで

前の続き。あるいは、殿様や親につかえるほか、お客に会うこと。

 

一、午後二時から午後四時まで

前の続き。

 

一、午後四時から午後六時まで

昔の名高い画を手本として、一心にならうこと。

 

一、午後六時から午後八時まで

読みたい本を読んだり、書きぬいたり、または文を作ったりすること。

 

 このように登は、日々の仕事を決めて、規律正しくしたので、画がたいそう上手になって、人々にもてはやされたばかりでなく、学問も進んで、世間のためになりましたので、りっぱな人として敬(うやま)われました。

(第四期 尋常小学修身書 巻四) 


勤勉は幸福の母

 伊勢屋吉兵衛

(いせや・きちべえ)

 世の中に心身を働かせずにできることは一つもない。何事も勤勉によってなり、怠惰によって敗れるものである。とりわけ職業に従事するには、勤勉であることが大切である。いかほど才能があっても、安逸(あんいつ)をむさぼって心身を労することを嫌う者は、結局職業に失敗し、これに反してすぐれた才能はなくても、忠実に骨身を惜しまず働く者は、必ず成功する。勤勉は幸福の母であって、家は家族の勤勉によって興(おこ)り、国は国民の勤勉によって栄える。

 昔、伊勢屋吉兵衛という商人があった。幼名を吉松(よしまつ)といい、十一歳のとき、商人になろうと志を立てて、三人連れで近江からはるばる江戸へ出てきて、麹商(こうじしょう)伊勢屋彦四郎(いせやひこしろう)の家にたどり着いた。ほかの二人はすぐわらじを脱ぎすて、足を洗ってさっさと上がったが、吉松は脱いだわらじの土を洗い落とし、垣にかけておいて、それから足を洗って上がり、ていねいに主人にあいさつした。彦四郎はこれを見て、将来見込みのある若者だと思った。

 この家には二十余人の若者がやとわれていたが、吉松はすぐれてよく働いた。毎朝ほかの若者がまだ起きないうちに、一度遠方へ麹を売りに行って帰り、それからまたほかの者と同じように近辺を売り歩いたから、売上高がいつもほかの者の倍以上もあった。夕方には若者がめいめい米一臼(こめひとうす)ずつついて仕事を終え、そのあとは皆勝手に遊びに出たが、吉松はいつも居残ってほかの者のついた米の後始末などをした。このように一生懸命に働いているうちに、吉松はいつしか十八歳になった。

 彦四郎は吉松の勤めぶりに感心して、一度その心底を確かめたうえでおおいに取り立てようと考えた。

 ある朝、吉松は商いが多くてほかの者よりも遅れて帰ってきた。まだ朝飯も食わないのに、彦四郎は吉松に「水一荷(みずいっか)くんでこい」といいつけた。吉松は勢いよく水桶をかついでいって一荷くんで帰ると、主人は「もう一荷くんでこい」といいつけた。

 このとき、ほかの者は皆もう飯をすませているのに、主人はその者らにはいいつけずに、どうして自分ばかりにくませるのだろうと吉松は不振に思った。が、もとより骨惜しみしない吉松のことであるから、いわれるままにまた出かけてくんできた。

 すると主人は、「ついでにもう一荷くんでこい。」と三たびいいつけた。井戸はかなり遠くにあった。吉松は、今は腹はへり、足は疲れて一歩も踏み出せないようであったが、主人のいいつけをだいじに思って、やっとのことでまた一荷かついで帰った。

 彦四郎はこれを見ておおいに喜び、吉松を自分の前に呼び寄せて、新しい衣服を取り出して着替えさせ、「さぞ腹がへって疲れたろう。自分もまだ飯を食べずに待っていた。」といって、吉松に鯛の焼物などの料理を与えていっしょに食事をさせた。それから彦四郎は若者一同を呼び集めて、「今日から吉松は吉兵衛と改名させ、番頭を申しつける。それを不服に思う者にはひまをやってもよろしい」といい渡した。

 吉兵衛はその後十余年間少しも変りなく誠実に勤めた。そこで彦四郎は家屋敷を買い求め、資本を出して、吉兵衛に大きな呉服店を経営させたが、これもおおいに繁昌(はんじょう)した。

 のち、彦四郎は死ぬとき、吉兵衛の日ごろの勤勉に報いるために、その呉服店をすっかり吉兵衛にゆずり与えた。それから吉兵衛はますます家業に励み、店はいよいよ繁昌した。のちのその家から出て伊勢屋を名乗る者が五十三軒にもおよんだということである。

 精出せば こおる間もなし水車

(第四期 高等小学修身書 巻一)