師弟・友情

教えを請(こ)う

 本居宣長

(もとおり・のりなが)

 本居宣長は、伊勢の国、松阪の人である。若いころから読書が好きで、将来学問をもって身を立てたいと、一心に勉強していた。

 ある夏のなかば、宣長がかねて買いつけの古本屋へ行くと、主人は愛想よく迎えて、

「どうも残念なことでした。あなたが、よくお会いになりたいといわれていた江戸の加茂真淵(かものまぶち)先生が、先ほどお見えになりました。」

 という。思いがけないことばに宣長はおどろいて、

「先生が、どうしてこちらへ。」

「なんでも、山城(やましろ)・大和(やまと)方面のご旅行がすんで、これから参宮をなさるのだそうです。あの新上屋にお泊りになって、さっきお出かけの途中、『何かめずらしい本はないか』と、お寄りくださいました。」

「それは惜しいことをした。どうにかしてお目にかかりたいものだが。」

「おとを追っておいでになったら、たいてい追いつけましょう。」

 宣長は、大急ぎで真淵の様子を聞き取ってあとを追ったが、松阪の町はずれまで行っても、それらしい人は見えない。次の宿の先まで行ってみたが、やはり追いつけなかった。宣長は力を落としてすごすごともどってきた。そうして新上屋の主人に、万一お帰りにまた泊まられることがあったらすぐ知らせてもらいたいとたのんでおいた。

 望みがかなって、宣長が真淵を新上屋の一室にたずねることができたのは、それから数日ののちであった。二人は、ほの暗い行灯(あんどん)のもとで対面した。真淵はもう七十歳に近く、いろいろりっぱな著書もあって、天下に聞こえた老大家。宣長はまだ三十歳あまりで、温和な人となりのうちに、どことなく才気のひらめいている少壮(しょうそう)の学者。年こそ違え、二人は同じ学問の道をたどっているのである。

 だんだん話をしているうちに、真淵は宣長の学識の尋常でないことを知って、非常にたのもしく思った。話が古事記(こじき)のことにおよぶと、宣長は、

「私は、かねがね古事記を研究したいと思っております。それについて、何かご注意くださることはございますまいか。」

「それは、よいところにお気づきでした。私も、実は早くから古事記を研究したい考えはあったのですが、それには万葉集(まんようしゅう)を調べておくことが大切だと思って、そのほうの研究に取りかかったのです。ところが、いつのまにか年をとってしまって、古事記に手をのばすことができなくなりました。あなたは、まだお若いから、しっかり努力なさったら、きっとこの研究を大成することができましょう。ただ、注意しなければならないのは、順序正しく進むということです。これは、学問の研究にはとくに必要ですから、まず土台をつくって、それから一歩一歩高くのぼり、最後の目的に達するようになさい。」

 夏の夜は、ふけやすい。家々の戸は、もうみな閉ざされている。老学者のことばに深く感動した宣長は、未来の希望に胸をおどらせながら、ひっそりした町すじをわが家へ向かった。

 そののち、宣長は絶えず文通して真淵の教えを受け、師弟の関係は日一日と親密の度を加えたが、面会の機会は、松阪の一夜以降とうとう来なかった。

 宣長は真淵の志を受けつぎ、三十五年間の間、努力に努力を続けて、ついに古事記の研究を大成した。有名な『古事記伝』という大著述(だいちょじゅつ)は、この研究の結果で、わが国の学問の上に不滅の光を放っている。

(第五期 国民学校修身教科書 初等科 四)


忠と孝

 平重盛

(たいらの・しげもり)

 重盛の父、太政大臣(だじょうだいじん)平清盛(たいらの・きよもり)は、入道(にゅうどう)して浄海(じょうかい)といったが、権力をほしいままにして、勝手気ままなふるまいが多かった。

 あるとき、後白河法皇(ごしらかわほうおう)を恨み、法皇を幽閉(ゆうへい)しようとして、多くの兵士を召集した。

 重盛は、このことを聞いておおいにおどろき、急いで父の館(やかた)に行ってみると、一族の者たちは、みんなかぶとを着け、馬に鞍(くら)をおいて、今にも出陣しようとする様子であった。弟の宗盛(むねもり)は、重盛の袖(そで)を引いて、

「こんな大事なときに、どうしてかぶともつけないのか。」

 といった。

 重盛はふりかえって、

「自分は近衛(このえ)大将である。君(きみ=法皇)にそむく敵もいないのに、みだりにかぶとを着けるべきではない。」

 といって奥に入っていった。

 清盛は、この様子を見ていて、急いでよろいの上に黒染めの法衣(ほうえ)を着て出てきたが、いくら襟(えり)を合わせようとしても、ほころびた襟の間から、よろいの金物が光って見えた。

 重盛は、はらはらと涙を落とし、

「人が受ける恩の中で、君のご恩がもっとも重いものです。わが平家は、代々君のご恩を受けることが深く、こと父上は、位人臣(くらいじんしん)をきわめ、この重盛すら大臣大将となり、そのうえわが一門の所領(しょりょう)は天下の半分にもおよんでいます。今この莫大(ばくだい)なご恩を忘れて君にそむこうとするのは何事ですか。そんなことをすればかならず天罰がきて、私たちの家はほろびてしまいます。そもそも人臣(じんしん)の道は私事よりも王事のほうがだいじです。重盛は近衛大将として法皇を守護するために、部下の兵士とともにすぐにでも院中に馳(は)せ参じなければなりません。さきに、保元(ほうげん)の乱のとき、源義朝(みなもとの・よしとも)が父の為義(ためよし)を害したことは、勅命(ちょくめい)によるとはいえ、無道(むどう)のふるまいであると口惜しく存じておりましたが、このような浅ましいことが、今日は重盛の身に出てこようとは、心苦しくてなりません。そうかといって、父上に敵対することはどうしても忍びがたいことです。もし、どうしてもこの企(くわだ)てを成しとげようとなさるならば、どうぞ、まず重盛の首をはねてからあとにしてください。」

 といって泣き、かついさめました。これにより、清盛も悟るところがあって、とうとうその企てをやめました。このようにして重盛は、忠と孝とをまっとうすることができ、美名を後世(こうせい)に残しました。

(第三期 高等小学修身書 巻一)


師につかえる

 吉田松陰

(よしだ・しょういん)

  弘化(こうか)三年、松陰が十七歳になったときのことである。

 きのうは、一日中ひどい風が吹いて、浜辺から海鳴りがとどろいてきた。今日もまだそのなごりで、庭木の枝がゆれる音が、耳についてならない。

 このころ、松陰は林真人(はやし・まひと)という先生の家に住みこんで、その教えを受けていた。松陰は、十一歳、十三歳、十五歳と三回ほど、藩主毛利敬親(もうり・たかちか)の前へ出て、兵学の講義をした。

「よく、できる。」

 といって、たいそうほめられたが、なかでも十五歳の折には、ほうびとして、『七書直解(しちしょちょっかい)』という書物をいただいた。それでもなお兵学をいよいよ深くきわめるために、努力を続けたのである。

 松陰の部屋は、二階にある。寝る前、窓辺から見た大空には、雲はすっかり風に吹きはらわれて、あちこちにさえた色で光る星が仰(あお)がれた。

 それから、どれくらいの時間がたったであろうか。松陰は、夢の中で、ただごとでないにおいを感じて、はっと目がさめた。がばとはね起きると、夢ではない。部屋いっぱいに、もうもうたる煙が、うずを巻いている。そのとたん、階下からも、けたたましい叫びがつきあがってきた。

「火事だ」

「火事だ」

 松陰は、とっさに身支度をすませて、どどっと階段をかけおりていった。まだやまない強い風にあおられて、火のまわりは早かった。炎の勢いはものすごく、もう手のつけようもない。

「騒ぐな」

 かけおりてくるやいなや、松陰はみんなを大声でしかりつけた。家の人々は、ただうろうろと逃げまどい、わあわあ泣きわめくばかりであった。

「女と子どもは、そのまま外へ行け。男はだいじなものだけ、運び出せ」

 煙は真っ黒になって、もくもくと吹き出しはじめた。女、子どもは、泣きながら戸外へ飛び出していく。そのあとを追いかけるようにして、本箱や、たんすを引っかついだ男たちが続いた。

 松陰は一生懸命になって、本という本を手あたりしだいにつかみ出し、家の外へほうり出した。

 めらめらと、赤い炎が身近に迫ってくる。松陰が飛び出すと、まもなく、ばりばり、めりめりと、はりや柱が響きをあげて、くずれ落ちた。炎の色は夜空をこがし、恐れおののく人々の顔を、ものすごく照らし出した。

 やがて、松陰の大奮闘によって、書物の大部分と、家財道具のいくらかを取り出しただけで、林真人の家はあとかたもなくなって、一山の灰になってしまったのである。

 休むひまもなく、あとかたづけに元気いっぱい働きながら、松陰は、先生にあいさつをした。

「死人もなく、けが人もなかったのは、なによりでした。」

「いや、それだけではない。きみの働きで、だいじな書物が、ほとんど全部助かったのは、大きな幸いだった。それに引きかえ、きみが着の身着のままになって、書物も着物もみんな失ったのは、まことにお気のどくだ。ありがたいやら、申しわけないやら、なんともいうことばがない。」

「私の持ち物など、少しも惜しいことはありません。」

「いや、ことにあいすまないのは、きみが殿様からいただいたあの『七書直解』を灰にしてしまったことだ。まことに取りかえしのつかないことをしたな。」

「あ、『七書直解』ですか。惜しいことは惜しかったのですが、もうあれは十分はらに入れたつもりですし、また殿様には、私から重々おわびいたしますから、どうぞご心配なく。」

 松陰はかえって師と仰(あお)ぐ林先生をなぐさめるのであった。ほんとうに松陰は自分のものを何も惜しいとは思っていなかった。むしろ、力が足りないため、もっとたくさん、いろいろのお手伝いができなかったことを、恥ずかしいとさえ考えていた。

 師につかえるのに、私心があってはならない。しかもどんな場合にも、自分を磨くのが、学問する者の態度である。松陰の行いは、つねに自分の学ぶところと一つになっていたのだ。

(第五期 国民学校修身教科書 初等科 四) 


友にゆずる

 新井白石

(あらい・はくせき)

 新井白石は、九歳のときから日課を立てて、少しのひまもむだにせず、一生懸命に学業に励みました。のち、木下順庵(きのした・じゅんあん)という名高い学者の弟子となって、貧苦をこらえてますます勉強したので、日に日に学問が深くなりました。

 順庵は、白石を見込んで、自分が昔つかえていた加賀の藩主に推薦することにしました。加賀は百万石の大藩で、藩主も評判の高いすぐれた人でした。

 そのころ、順庵の弟子に岡島石梁(おかじま・せきりょう)という者がありました。そのことを聞いて、白石に向かい、

「加賀は自分の郷里で、家には年寄りの母がただ一人、自分の買える日を待ち暮らしている。最近来た手紙で見ると、たいそう老いおとろえたようで、心細いことばかり書いている。もし先生のおとりなしで、自分が加賀の殿様につかることができたら、母もどんなに喜ぶかしれない。」

 といいました。白石はそれを聞くと、すぐ順庵のところへ行き、そのわけを話して、

「私はどこでもよろしゅうございます。加賀へはどうか岡島をご推薦ください。」

 と願いました。順庵は白石が友情に篤(あつ)いのに感心して、そのとおりにしました。そこで石梁は、喜んで、故郷に錦をかざることになりました。

 翌年、甲斐(かい)の藩主から、順庵の一の弟子をお召しかかえたいと申しこんできたので、白石は順庵の推薦によって、甲斐の藩主につかえることになりました。

(第四期 尋常小学修身書 巻五)