奉仕・孝行

慈悲の心

 鉄眼

(てつげん)

 一切経(いっさいきょう)は仏教に関する書籍を集めた叢書(そうしょ)であって、仏教を志す人にとっては、このうえなく貴重なものである。しかも、それは数千巻という大部なもので、これを出版するのは、容易なことではなかった。したがって、以前は支那(中国)から来たものが、ごくわずかだけあるだけで、いくらほしくても、なかなか手に入れることができなかった。

 今から二百数十年前、山城宇治(やましろうじ)の黄檗山(おうばくさん)万福寺に鉄眼という僧があった。あるとき鉄眼は自分の一生涯の仕事として、この一切経の出版を思いたった。そうしてどんな困難をしのんでも、かならずこの企てを成しとげようと固く心に誓った。

 鉄眼は、広く各地をめぐり歩いて資金を募り、数年かかって、ようやくその資金をととのえることができた。鉄眼がいよいよ出版に着手しようとしたときである。大阪地方に出水が起こった。たくさんの死傷者ができ、家産を流失して路頭に迷う者は、数えきれないほどであった。

 目のあたりに、このあわれなありさまを見て、鉄眼はじっとしていることができなかった。

「自分が、一切経の出版を思いたったのは、仏教を盛んにしようとしてのことである。仏教を盛んにしようとすることは、つまり人を救おうとするためである。喜捨(きしゃ)を受けたこの金を、一切経のために費やすのも、飢えた人々の救済にもちいるのも、帰するところは同じである。一切経を世に広めるのはもちろん大切である。けれども、人の命を救うのは、もっと大切である。」

 こう思った鉄眼は、喜捨してくれた人々の同意を得たうえで、出版の資金全部を救済の費用にあてたのであった。

 苦心に苦心を重ねて集めた出版費は、すっかりなくなった。しかし、鉄眼は少しも気にかけず、また募集に着手した。それからさらに数年、努力はむくわれて、いよいよ志を果たすことのできる日が近づいた。

 ところで、今度は近畿地方一帯に大飢饉(だいききん)があって、人々の苦しみは、この前の洪水どころではなかった。幕府は、たくさんの救い小屋をつくって、救済にあたったが、人々の難儀は、日ましに募っていくばかりであった。鉄眼は、ふたたび救済を決意した。こうして、鉄眼は二度資金を集めて、二度それを散じてしまった。しかも、鉄眼は第三回の募集に着手した。彼の深い慈悲心と、あくまで一念をひるがえさない熱意とが、世間の人々の心を動かさないではおかなかった。

 われもわれもと多くの人々が、進んで寄付に応じた。資金は、意外に早く集まり、製版・印刷のわざは、着々として進んだ。鉄眼が、この大事業を思いたって以来十七年、天和(てんな)元年に至って、一切経六千九百五十六巻の大出版は、ついに完成された。これが世に鉄眼版と称されるもので、一切経が広く日本に行われるようになったのは、実にこれ以来のことである。

 この版木(はんぎ)は、今も万福寺に保存され、三棟の倉庫にぎっしりつまっている。

「鉄眼は、一生に三度、一切経を出版した。」

 これは、のちに福田行誡(ふくだぎょうかい)という人が、鉄眼の事業を感歎(かんたん)していったことばである。

(第五期 国民学校修身教科書 初等科 四)


助け合う

 毛利元就

(もうり・もとなり)

 昔、毛利元就という人がありました。元就には、隆元(たかもと)・元春(もとはる)・隆景(たかかげ)という三人の子があって、元春・隆景はそれぞれ別の家の名を名乗ることになりました。元就は、三人の子がさきざき離れ離れになりはせぬかと心配して、いつも「三人が一つ心になって助け合うように」といましめていましたが、あるとき、三人に一つの書き物を渡しました。それには、

「三人とも、毛利の家を大切に思い、たがいに、少しでもへだて心を持ってはならない。隆元は二人の弟を愛し、元春・隆景はよく兄につかえよ。そうして、三人が一つ心になって助け合え。」

 と書いてありました。また、元就は、隆元に別の書き物を渡しましたが、それにも、

「あの書き物を守りとおして、家の栄をはかるようにせよ。」

 と、よく行き届いたいましめが書いてありました。

 書き物をもらった兄弟は、三人の名を書きならべた請書(うけしょ)を父に差し出し、

「三人は、心を合わせて御いましめを守ります。」

 と固く誓いました。

 その後、元就のあとをついだ隆元は早く死んで、その子の輝元(てるもと)が家をつぎました。元春・隆景は、よく元就のいましめを守って輝元を助けましたので、毛利家は長く栄えました。

(第四期 尋常小学修身書 巻三)


分かち合う

 鈴木今右衛門

(すずき・いまえもん)

 昔、鶴岡に、鈴木今右衛門というなさけ深い人がありました。大飢饉(だいききん)のあったとき、自分のうちの金や米・麦などを出して、飢えた人を助けました。それでも、まだ飢え死にする人がありますので、田や畑をはじめ、家の道具まで売って、たくさんの人を救いました。

 今右衛門の妻も、心だてのよい人で、持っていた着物などは、おおかた売って人を助けましたが、晴れ着がまだ二枚だけ残っていましたので、それを売り払おうとしました。今右衛門が、

「外へ出るのに、着替えの一つぐらいはあったほうがよかろう。それだけは残しておいたらどうか。」

 といいますと、妻は、

「着替えがあると、外へも出るようになります。着替えがなくなって、外へ出ることができなければ、くしやかんざしもいりません。残らず売って、もっとたくさんの人を助けましょう。」

 といって、晴れ着といっしょに、くしやかんざしも売ってしまいました。

 今右衛門夫婦に、十二になる娘がありました。ある寒い日、同じ年ごろの女の子が、物もらいに来ました。母はそれを見て、娘に、

「お前は綿入れを二枚重ねて着て暖かにしているが、あの子は、ひとえもの一枚でふるえています。一枚やってはどうです。」

 といいますと、娘はすぐ、上に着ているよいほうを脱いで、その子にやりました。

 ワガ身ヲツネッテ、人ノ痛サヲ知レ。

(第四期 尋常小学修身書 巻三) 


親を敬う

 松平好房

(まつだいら・よしふさ)

 松平好房は、小さいときから行儀のよい人で、自分の居間にいるときでも、父母のおられるほうへ足をのばしたことは、決してありませんでした。よそへ行くときには、そのことを父母に告げ、帰ってきたときは、かならず父母の前へ出て、

「ただ今帰りました。」

 といってあいさつをし、それからその日にあったことを話しました。

 好房は、父母から物をもらうときは、ていねいにおじぎをしてそれを受け、いつまでも大切に持っていました。また、遠くへ出られた父母から手紙をもらったときは、まずいただいてから開き、読み終わると、またいただいてそれをしまいました。

 父母が何かおっしゃるときには、好房は行儀よく聞いて、おっしゃることにそむかないようにし、また人が好房の父母の話をするときでも、すわりなおして聞きました。

 好房は、このように父母を敬(うやま)って行儀がよかったばかりでなく、親類の人にも、お客にも、いつも行儀よくしましたので、好房をほめない者はありませんでした。

(第四期 尋常小学修身書 巻三)


公益に資する

 布田保之助

(ふた・やすのすけ)

 熊本の町から東南十数里、緑川の流れに沿って、白糸村というところがあります。あたり一面高地になっていて、緑川の水は、この村よりずっと低いところを流れています。また、緑川にそそぐ二つの支流が、この村のまわりの深いがけ下をながれています。

 白糸村は、このように川に取りかこまれながら、しかも、川から水が引けないところです。それで昔は、水田は開けず、畑の作物はできず、ところによっては飲み水にも困るくらいでした。村人たちは、よその村々の田が緑の波を打つのを眺めるにつけ、豊かに実って、金色の波が打つのを見るにつけ、どんなにか、うらやましく思ったことでしょう。

 今からおよそ百年ほど前、この地方の総荘屋(そうじょうや)に布田保之助(ふた・やすのすけ)という人がありました。保之助は、村々のために道路を開き、橋をかけて交通の便をよくし、堰(せき)をもうけて水利をはかり、おおいに力をつくしましたが、白糸村の水利だけはどうすることもできないので、村人たちといっしょに、水のとぼしいことをただ嘆くばかりでした。

 いろいろ考えたあげくに、保之助は、深い谷をへだてた向こうの村が、白糸村よりも高く、水も十分にあるので、その水をどうにかして引いてみよう、と思いつきました。しかし、小さなかけひの水ならともかくとして、田をうるおすほどのたくさんの水を引くのは、なまやさしいことではありません。保之助は、まず木で水道を作ってみました。ところが、水道は、はげしい水の力で、ひとたまりもなくこわされ、固い木材が深い谷底へばらばらになって落ちてしまいました。

 けれども一度や二度のしくじりで、志のくじけるような保之助ではありません。今度は、石で水道を作ろうと思って、いろいろと実験してみました。水道にする石の大きさや水道の勾配を考えて、水の力のかかり方や、吹き上げ方などをくわしく調べました。とりわけ、石のつぎ目から、一滴も漏らさないようにする工夫は、いちばん苦心しました。そうして、やっとこれならば、という見こみがついたので、まず谷に高い石橋をかけ、その上に石の水道をもうける計画を立てて、藩に願い出ました。

 藩のほうから許しがあったので、一年八か月を費やして、大きなめがね橋をかけました。高さが十一間あまり、幅が三間半、全長四十間。そうして、この橋の上には、三すじの石の水道が作ってありました。

 初めて水を通すという日のことです。保之助は、礼服をつけ、短刀を懐にして、その式に出かけました。万が一にも、この工事がしくじりに終わったら、申しわけのため、その場を去らず、腹をかき切る覚悟だったのです。工事を見とどけるために来た藩の役人も、集まった村人たちも、他村からの見物人も、保之助の真剣な様子を見て、思わず襟を正しました。

 足場が取り払われました。しかし、石橋は、びくともしません。やがて水門が開かれました。水は、勢いこんで長い石の水道を流れてきましたが、石橋はその水勢に耐えて、あいかわらずの谷の上に高くどっしりとかかっていました。望みどおりに、水がこちらの村へ流れこんだのです。

 「わあ!」という喜びの声があがりました。保之助は、長い間苦心に苦心を重ねた難工事が出来上がったのを見て、ただ涙を流して喜びました。そうして、水門をほとばしり出る水を手にくんで、押しいただいて飲みました。まもなく、この村にも、水田の開けるときが来て、百町歩ほどにもなりました。しだいに村は豊かになり、住む人もふえて、藩もおおいに収益を増すようになりました。橋の名は通潤橋(つうじゅんきょう)と名づけられ、今もなお深い谷間に虹のような姿を横たえて、一村の生命をささえる柱となっています。

(第五期 国民学校修身教科書 初等科 三)

生き物をあわれむ

 孫兵衛

(まごべえ)

 昔、木曾(きそ)山中に、孫兵衛(まごべえ)という馬方(うまかた)がありました。あるとき、一人の僧が、その馬に乗りました。道のわるいところにかかると、そのたびに、孫兵衛は、馬の荷に肩を入れて、

「おっと、親方、あぶない、あぶない。」

 といって、馬を助けてやりました。僧は不思議に思ってそのわけをたずねました。すると孫兵衛は、

「私ども親子四人は、この馬のおかげで暮らしておりますから、馬とは思わず、親方と思っていたわるのでございます。」

 と答えました。

 約束したところへ着いたので、僧は賃銭を払いました。孫兵衛は、まその中でもちを買って、馬に食べさせました。そうして、自分の家の前へ行くと、孫兵衛の妻と子が、馬のいななきを聞きつけて、迎えに出てきて、さっそく馬にまぐさをやりました。

 僧はそれを見て、孫兵衛の家中が、みんな心がけがよいのに、たいそう感心しました

(第四期 尋常小学修身書 巻三)

仁愛

 瓜生岩子

(うりゅう・いわこ)

 東京浅草の観音にお参りすると、本堂に向かって左手の庭に、やさしい笑いをたたえたおばあさんの銅像があります。これこそ貧しい人や、みなし子の母と慕われた瓜生岩子の銅像です。

 岩子は、福島県の喜多方に生まれました。早く父に死に別れ、続いて火事にあい、小さいときからいろいろと苦労をしました。結婚してから、若松で呉服屋を始め、子どもも生まれ、店もおいおい繁昌して、やっと暮らしがらくになったころ、夫が重い病にかかって、七年の長わずらいののちに死にました。岩子それから店を人にゆずって、喜多方へ引っ越しました。

 度重なる不幸にあっても、岩子はそのため世をはかなむようなことはなく、かえって同じような不幸な人に対する思いやりの心を深くしました。喜多方へ引っ越してまもなく戊辰(ぼしん)の役が起こり、若松は戦争のちまたとなりました。岩子は「どんなときにも、女には女の仕事がある。」といって、銃火(じゅうか)の中をくぐって、負傷者の介抱や、たき出しなどに、かいがいしく立ち働きました。

 このとき、会津藩士の家族は、多く喜多方の方面へのがれてきましたが、泊まる家もなく、飢えと寒さに苦しんでいました。岩子は見るに見かねて、わが家に連れ帰り、また近所の家や付近の農家にたのんで、泊まらせることにしました。そうして、これらの人に、着物や食べ物などをととのえてやり、病気の者には、みずから薬をせんじて与え、老人をなぐさめ、おさない者をいたわり、働ける者のためには、仕事をさがしてやるなど、わが身を忘れて世話をしました。、

 とりわけ、岩子があわれに思ったのは、父兄を失ってたよる人もない子どもたちのことでした。さぞかし名ある武士の子であったろうに、武士らしいしつけも受けず、毎日遊び暮らしているのを見て、岩子はその行く末を案じました。そこでよい先生をたのみ、ささやかな学校を開き、古机・古本・古すずりなどをもらい受けて、勉強ができるだけの用意をし、九歳から十三歳までの子どもを集めて、読み・書き・そろばんを学ばせました。このとき集まった子どもは五十人ばかりありましたが、岩子はその親ともなって、親切にみちびきました。

 明治五年に初めて小学校ができたので、岩子の学校は閉じられることとなりました。岩子は、それから世の貧しい人を助け、みなし子を育てることに全力をつくしました。その行いが世間に広まり、お上(かみ)から何度もほうびをいただきました。ついで養育院が初めて東京にできたときには、その最初の幼童世話係長に選ばれました。

第五期 国民学校修身教科書 初等科 三