誠実・寛大

人間の度量

 西郷隆盛

(さいごう・たかもり)

 西郷隆盛が、江戸の薩摩(さつま)藩の屋敷に住んでいたころ、ある日、友達や力士を集めて庭で相撲をとっていると、取り次ぎの者が来て、

「福井藩の橋本左内(はしもと・さない)という人が見えて、ぜひお目にかかりたいと申されます。」

 といいました。一室に通し、着物を着替えて会ってみると、左内は、二十歳あまりの、色の白い、女のようなやさしい若者でした。隆盛は心の中で、これではさほどの人物ではあるまい、と見くびって、あまりていねいにあしらいませんでした。左内は、自分が軽蔑(けいべつ)されていることをさとりましたが、少しも気にかけず、

「あなたがこれまで、いろいろ国事にお骨折りになっていると聞いて、したわしく思っていました。私もあなたの教えを受けて、およばずながら、国のためにつくしたいと思います。」

 といいました。

 ところが、隆盛は、こんな若者に国事を相談することはできないと思って、そしらぬ顔で、

「いや、それはたいへんなお間違いです。私のようなおろか者が、国のためをはかるなどとは思いもよらぬことです。ただ相撲が好きで、ごらんのとおり、若者どもといっしょに、毎日相撲をとっているばかりです。」

 といって、相手にしませんでした。それでも、左内は落ち着いて、

「あなたのご精神は、よく承知しています。そんなにお隠しになさらずに、どうぞ打ち明けていただきたい。」

 といって、それから国事について自分の意見をのべました。隆盛はじっと聞いていましたが、左内の考えがいかにもしっかりしていて、国のためを思う真心があふれているのにすっかり感心してしまいました。

 隆盛は、左内が帰ってから、友達に向かい、

「橋本はまだ年は若いが、意見は実にりっぱなものだ。見かけがあまりやさしいので、はじめ相手にしなかったのは、自分の大きなあやまちであった。」

 といって、深く恥じました。

 隆盛は、翌朝すぐに左内をたずねていって、

「昨日はまことに失礼しました。どうかおとがめなく、これからもお心やすく願います。」

 といってわびました。それから、二人は親しく交わり、心を合わせて国のためにつくしました。

 左内が死んだのちまでも、隆盛は、

「学問も人物も、自分がとてもおよばないと思った者が二人ある。一人は先輩の藤田東湖(ふじた・とうこ)で、一人は友達の橋本左内だ。」

 といってほめました。

(第四期 尋常小学修身書 巻五)


堪忍と勇気

 木村重成

(きむら・しげなり)

 木村重成は、豊臣秀頼(とよとみ・ひでより)の家来で、小さいときから、秀頼のそば近くつかえました。

 重成が十二、三のころのことです。ある日、大阪の城の中で、そうじ坊主とおもしろくたわむれていましたが、どうしたわけか、相手が、急に本気になって、たいそう腹を立て、さんざん悪口をいったうえ、重成に打ってかかろうとしました。居合わせたおとなの人たちは、どうなることかと心配しました。

 重成は、無礼なことをする、と思いましたが、じっとこらえて取り合わず、そのまま奥へ入りました。人々は、意外に思って、重成を臆病者だといって笑いました。それからは、そうじ坊主がいばってしかたがありませんでした。

 のちに、秀頼が徳川家康といくさをしたとき、重成は、人をおどろかすほどの勇ましい働きをしました。そこで、前に重成を臆病者だといって笑った人たちまでが、

「重成こそ、ほんとうの勇気のある人だ。」

 といって、感心しました。

 ナラヌ カンニン、スルガ、カンニン。

 

 家康が、大軍を引き連れて、秀頼のいる大阪の城に攻めてきたときのことです。重成は、二十歳ばかりでしたが、一方の大将となって、城から打って出て、おおぜいの敵と戦い、勇ましい働きをして、敵味方をおどろかしました。

 のちに、いくさの仲なおりをすることになって、重成は、家康の陣屋へ使いに行きました。重成は、家康をはじめ、おおぜいの敵の大将の並んでいるところへ出ましたが、びくともしません、そのうち、書き物を受け取ることになりましたが、見ると、家康の血判がうすいので、

「もう一度、目の前で押しなおしてください。」

 と、少しも恐れずいいました。しかし、家康は、

「年をとったかげんで、うすいのだろう。」

 といって、聞き入れない様子でした。けれども、重成が、ただ黙ってすわっていますので、家康も、しかたがなく、とうとう血判を押しなおして、重成に渡しました。

 重成が帰ったあとで、家康をはじめ、そばにいた大将たちは、みんな重成のりっぱなふるまいをほめました。

(第四期 尋常小学修身書 巻三)


遠慮する

ある正直な馬方

 昔、正直な馬方(うまかた)がありました。

 ある日、馬方は、一人の飛脚を馬に乗せて、遠いところへ送っていきましたが、家に帰って馬の鞍(くら)をおろすと、金のたくさん入っている財布が出ました。

「これは、さっき乗った飛脚の忘れた物にちがいない。」

 と思って、疲れているのに、遠い道もかまわず、すぐ走っていって、飛脚に会いました。そうして、くわしくたずねたうえで、その財布を渡しました。飛脚はたいそう喜んで、

「この金がなくなると、私の命もあぶないところでした。あなたのご恩は、ことばでいいつくすことができません。」

 と、ていねいに礼をのべました。それから、別に持っていた金を取り出し、

「これは、わずかですが、お礼のしるしに受け取ってください。」

 といいながら、馬方の前へ差し出しました。馬方は、おどろいて、

「あなたの物をあなたがお受け取りになるのに、お礼をいただくわけにはまいりません」

 といって、手もふれません。飛脚がいくらすすめても、どうしても受け取らず、そのまま帰ろうとします。

 飛脚は、どうにかして受け取ってもらおうと思って、金をだんだんへらして、しまいには、ごくわずかにして、

「せめてこればかりは、どうぞ受け取ってください。でないと、私は寝ても寝られません。」

 と無理にすすめました。馬方は、

「お礼をいただいてはすみませんが、そんなにまでおっしゃいますなら、今夜、休むところをここまで来ました駄賃だけ、この中からいただきましょう。」

 といって、ほんのわずかの金を受け取りました。

(第四期 尋常小学修身書 巻三) 


悪口を言わない

 伊藤東涯

(いとう・とうがい)

 昔、京都に伊藤東涯という人がありました。父仁斎(じんさい)から二代続いた名高い学者で、いろいろ有益な本を著し、弟子もたくさんありました。

 同じころ、江戸には、荻生徂徠(おぎゅう・そらい)という有名な学者がありました。徂徠は、少しも遠慮しない人でしたから、はじめは仁斎をそしったこともありました。しかし、東涯は少しも相手にならず、また人のことを決してかれこれいいませんでした。

 あるとき、東涯の弟子が、徂徠の作った文を持ってきて東涯に見せました。そこに来合わせていた二人の客も、その文を見て、文字の使い方がおかしいとか、意味が通じないとか、盛んに悪口をいいました。しまいに東涯に向かって、

「先生がごらんになったら、傷だらけでございましょう。」

 といいました。すると、東涯は、

「人をそしるのは、天に向かって唾(つば)するようなものです。人はめいめい考えが違うものであるから、軽々しく人の悪口をいうものではありません。まして、この文は、むずかしいことを上手に書きあらわしてあります。今の世に、これだけの文のできる者は、まずないでしょう。」

 といいましたので、皆恥じ入ったということです。

(第四期 尋常小学修身書 巻四)


寛大になる

 貝原益軒

(かいばら・えきけん)

 益軒には、とりわけ大切にしている牡丹(ぼたん)があって、今を盛りと庭先に咲いていました。

 ある日、益軒が勤めに出たあとで、留守居をしていた書生が、隣の友達と庭で相撲をとりはじめました。たがいに「えいや、えいや」ともみ合っているうちに、どちらがどうしたはずみであったか、その牡丹を折ってしまいました。

「しまった」

 と、書生が思ったときは、もうだめでした。相手の友達と、あわてて枝を起こしてみたり、花をつないでみたりしましたが、もちろん、折れてしまったものはどうにもなりません。しばらくおろおろしていた末に、隣の主人にたのんで、わびてもらうことにしました。やがて、益軒が帰ってきました。隣の主人は、書生を連れて益軒の前にでました。書生は何といってしかられるかと思って、身をちぢめていました。

 ところが、隣の主人から話を聞いて、益軒は静かにこういいました。

「私は、楽しむために牡丹を植えておきました。牡丹のことで怒ろうとはおもいません。」

(第四期 尋常小学修身書 巻四)


誠実な態度

 加藤清正

(かとう・きよまさ)

 清正は、かつて石田三成(いしだ・みつなり)らの讒言(ざんげん)で秀吉の怒りを受けて、伏見の屋敷に謹慎していたことがありました。そのとき、ある夜大地震があって、たくさんの家が倒れました。

 清正は、秀吉の身の上を気づかって、二百人ばかりの部下を引き連れて、まっさきに伏見の城にかけつけ、夜が明けるまで城門を守っていました。秀吉がはるかに清正を見ますと、清正は、この年月、遠く外国に出て戦ったため、日にやけて色も黒く、やせおとろえていました。その難儀を重ねた様子がいかにも気のどくでしたのえ、秀吉も思わず涙を流して清正の遠征の苦労を思いやりました。そうして、今夜の清正の行いに感心して、怒りもおのずからとけました。

 そこで、あくる日清正を呼び出して、讒言のことをみずから聞きただしたが、清正に罪のないことが明らかになったので、かえって褒美を与えてほめました。

 秀吉がなくなったのち、その子の秀頼(ひでより)は、まだ幼くて、大阪城にいました。そのころ、徳川家康の勢いがたいそう盛んになり、豊臣氏の恩を受けた者もしだいに家康について、秀頼をかえりみる者が少なくなりました。しかし、清正は相変わらず秀頼のために心をつくし、大阪を通るたびに、かならず秀頼の安否をたずねました。家康はそれを嫌って、そっと人にいいふくめて、やめさせようとしました。

 清正は、

「大阪を通りながら、秀頼公のご機嫌をうかがわないのは、武士たる者の道でない。また太閤(たいこう)のご恩を忘れてはあいすまない。」

 といって聞きませんでした。

 あるとき、秀頼は、家康から、京都で対面したいと申しこまれました。秀頼の母は、家康に敵意のあることを疑って、秀頼が京都に行くことに同意しませんでした。けれども、清正は、もし秀頼がこの対面を断ったなら、豊臣氏と徳川氏との仲が悪くなるであろうと心配して、

「私が命にかけてお守りいたしますから、ぜひおいでを願います。」

 といってすすめました。そこで、秀頼は、清正といっしょに京都へ行くことになりました。

 清正は、途中、徒歩で秀頼の乗り物のそばにつきそって、京都の家康のところへ行きました。家康は、みずから玄関まで秀頼を出迎えて奥の間に通し、たがいにあいさつを交わし、それからごちそうをしました。清正もお相伴(しょうばん)をしましたが、よいころをはかって、

「さぞ、大阪では、お待ちかねのことでございましょう。さあ、お立ちなさいませ。」

 と申しましたので、家康も、

「ごもっとも、さてもさても、ご成人おめでたい。」

 といって、みやげを贈り、玄関まで見送りました。清正は、二人の対面の間は、少しも油断なく秀頼のそばにおり、帰りにも秀頼の身を守って無事に大阪に帰り着きました。そのとき、清正は、万一の用意にと、かねてふところに入れていた短刀を取り出し、

「今日、いささか太閤のご恩に報いることができた」といって、涙を流しました。

(第四期 尋常小学修身書 巻五)